何事も続けることの難しさ
あきらめずにひとつのことをやり続けることの難しさはよく言われています。菊池寛の「恩讐の彼方に」という小説があります。
主君を殺したがゆえに、その家を出て僧侶の身となって反省の日々を送る中で、ある村の通り道が険しく、何人もの滑落者が出ているという話を聞いて主人公はその町の安全な道の確保のためということで岩肌を槌とのみで掘り進めることを決めた。当初は手伝う町人もいたが、一人消え二人消え、一人となっても黙々と自省の念から掘り続けた。一方で殺された主君の息子は父の仇討ちの免状を取り、仇を探す旅に出た。主人公がトンネルを3分の2ほど掘り進めた頃に、町人がその本気度を知るにあたり手伝うようになったが、すでに掘り始めて20年近い日が経っていたその時に、父の仇を取るために探し求めていた息子はトンネルを掘っている仇の主人公にたどり着く。すぐに仇討ちを願い出るが、主人公は承諾するも町人が承諾せず、掘り切るまでということで仇討ちの保留が決定する。当の息子は早く仇討ちをという思いから一緒になって穴掘りをしているうちに、主人公の自省の念を肌でしることなり、貫通した時、既に掘り始めてから30余年の月日が経過し、両者が出会ってからも10年近い月日が経過したが、両者は仇討ち取りと仇という関係から飛び越えた熱いきずなで結ばれたところで話は終わります。
さてなぜこの「恩讐の彼方に」の話を出したのかというと、主君を殺した自省の念とはいえ、自分が貫通させるという思いを持った時から、30余年という月日が結果掛かったけれども、貫通させたということと、その最後まで人のためになる行動をするということは仇討ち仇の関係でさえも、融和させてしまうほどの、力を持つことを教えられた思いだったからです。
どんな些細なことであろうとも、人のためになることを、完成する最後までやり遂げる気持ちとその行動力が大事なことなのだということを言いたいがためでした。
「井戸を掘ったら水が出るまで掘れ」という伝承がソーイの280余年の発酵DNAには刻まれています。あきらめずに完成するまで、やり通す必要性を今回はお話しさせて頂きました。